小説の、小説による、小説のためのブログの別館です。本当にブログらしい、ブログです。
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今や、西宮由加里にとって、学校はイコール地獄を意味する。それまで、少女を養い温かく育んでくれた揺りかごのイメージは、もう何処にもない。
ただ、あるのは、絶えず拷問が繰り広げられる煉獄だけだ。
かつて、無邪気な顔で、教師を慕い、級友と友情を育んだうららかな牧場は存在しない。少なくとも、由加里にとっては、学校は牧場ではない。もっとも、いじめっ子たちにとっては、未だに牧場なのかもしれない。
そうなると、さしずめ、由加里は牧場の草だろうか。
いや、こういう比喩のほうが適当だろう、すなわち、学校はサファリパークであり、いじめっ子たちは、猛獣や禽獣のたぐい、そして、由加里は生きながらにしてエサにされる草食動物である。
ちなみに、教師は、安全なバスから、この無惨なショーを見物する客たちであろう
今日、書いた小説から。
この文章は、私の学校観を如実に表していますね。それ以上でも、それ以下でもないでしょう。
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「・・・・・・・・・・」
「そのバンドについて、詳しいことを教えてくれんか ―――――」
冴子は、中世のリュート奏者のように、弦をかき鳴らし続ける。その妙なる音曲と、奏者の視線を交互に見ていると、
この人は本当に現代の人間かと思わせる。
その指が生み出す旋律は、一見、クラシックを思い起こさせた。しかし、古典でありながら、全く旧さを感じさせない。
バッハだとか、モーツァルトだとか言う、かつての巨人たちの旋律を一切、感じさせない。
クラシックを完全に自分のモノとして消化し、新たな音楽を創りだすたけの構想力と創造性を併せ持っている。
今日、書き終わった小説の中から。
我ながら、よくも、恥ずかしくもなくこんな文章が書けると感心させられる。
私は、小学生のころ、ハーモニカやリコーダーで、足をくじいたほどの音痴だ。音楽的センスは生まれつきゼロに等しい。
そんな私が、こんな文章を書くのである。
文章書きとは、小説書きとは、なんと恥知らずが多いのだろう。
だが、その半面すばらしいものでもある。こんな体験ができるのだ。悪くない
「そのバンドについて、詳しいことを教えてくれんか ―――――」
冴子は、中世のリュート奏者のように、弦をかき鳴らし続ける。その妙なる音曲と、奏者の視線を交互に見ていると、
この人は本当に現代の人間かと思わせる。
その指が生み出す旋律は、一見、クラシックを思い起こさせた。しかし、古典でありながら、全く旧さを感じさせない。
バッハだとか、モーツァルトだとか言う、かつての巨人たちの旋律を一切、感じさせない。
クラシックを完全に自分のモノとして消化し、新たな音楽を創りだすたけの構想力と創造性を併せ持っている。
今日、書き終わった小説の中から。
我ながら、よくも、恥ずかしくもなくこんな文章が書けると感心させられる。
私は、小学生のころ、ハーモニカやリコーダーで、足をくじいたほどの音痴だ。音楽的センスは生まれつきゼロに等しい。
そんな私が、こんな文章を書くのである。
文章書きとは、小説書きとは、なんと恥知らずが多いのだろう。
だが、その半面すばらしいものでもある。こんな体験ができるのだ。悪くない
さしもの、ドライアイスと言われた性格の持ち主であっても、こと身内や親友のことになると、性格が180度変わることがあるのだ。
いや、人間の情などというものは、個体差はないのかもしれない。何処の分野に、どれほど振り分けられるかで、その人間の人格が決まる可能性もある。
数いる人間の中では、それが、自分だけに振り分ける自己愛の塊のような輩もいる。冴子は、それが身内やごく限られた人間だけに、
集中するきらいがあるのだ。
今日、書いた小説の中から。
ほとんど、手が動くままに、文章を書いた。ほとんど、何も考えていない。しかし、改めて、文書を読んでみると。
「そういうことも、あるものかな?」と感慨もひとしおだった。
文章がものを考えさせるのであって、その逆ではない。少なくとも、私のばあいは、そうらしい。
ヘンに、考えると何も書けなくなる。ただ、指をキーボードの上を走らせればいいのだ。
貴子が大きな声を上げた。
「どうしたんですか? 先輩は無事だったんですか?」
ミチルは、思わず冴子にしがみついた。二人の間には、頭一つほどの身長の差がある。だから、豊満な胸に、少女の顔が埋まってしまった。ぷにゃという感覚は、かつての母親を彷彿とさせる。
貴子は、あることに気づいた。
「ミチル、こうして、西宮さんが来てるって、ことは ―――――――」
「そうだよ、高島さんは、どうやら理性的な判断ができるようなだな、しかし、それは女としては必ずしもプラスとは限らないな」
「そんなこと、どうでもいい、先輩のこと教えてクダサイ!」
「その前に、顔を話してくれないか、この暑いのに」
「ご、ごめんさない」
冷房が効いているのにも係わらず、この言である。冴子の台詞は習慣化した結果であろう。
今日、書いた小説の中から~。
自分で、書いていて、不思議なのだが、「習慣化」とは一体、誰の視点なのだろう。あきらかに、作者の視線であることは、たしかだ。
このような、滑稽な表現が許可されるのが、小説のおもしろいところなのだろう。
しかし、本当に許されるのだろうか? 読者諸君の教えを乞う。
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
ふたりは、揺れるバスの中、互いに向き合った。視線は、互いを逃すまいとしている。
「お嬢ちゃん、座らないと危ないよ」
「え?はい ―――」
そんな緊張状態を和らげたのは、一人の老婆だった。
これは、私が書いている小説の一節です。39歳の夫人と10歳の少女の邂逅の場面ですが、非常に、緊迫した場面です。次の瞬間、それを和らげる存在が出現します。それが、この老婆ですが、この人、芝居で言うなら、単なるチョイ役なんです。
それに比べると、前者の二人は、小説の中でも、主人公に相当な影響を与える重要な役です。しかし、この通りすがりのような老婆の、ふとした行動が大切なのです。
小説や芝居でも、スパイスと同じような役割をすると思います。
スパイスは、少量で、最高の効果を示します。
これは、現実に置き換えても同じだと思います。もしかして、長い一生の内で、数秒ほどの出会いしかない。しかし、それがその人に、絶大な影響を与える。もしかして、その時は、気づかないかもしれないけれど・・・・・・・・・・。
この世に、偶然などと言うものはない。
それが私の信条のひとつです。
「・・・・・・・・・・」
ふたりは、揺れるバスの中、互いに向き合った。視線は、互いを逃すまいとしている。
「お嬢ちゃん、座らないと危ないよ」
「え?はい ―――」
そんな緊張状態を和らげたのは、一人の老婆だった。
これは、私が書いている小説の一節です。39歳の夫人と10歳の少女の邂逅の場面ですが、非常に、緊迫した場面です。次の瞬間、それを和らげる存在が出現します。それが、この老婆ですが、この人、芝居で言うなら、単なるチョイ役なんです。
それに比べると、前者の二人は、小説の中でも、主人公に相当な影響を与える重要な役です。しかし、この通りすがりのような老婆の、ふとした行動が大切なのです。
小説や芝居でも、スパイスと同じような役割をすると思います。
スパイスは、少量で、最高の効果を示します。
これは、現実に置き換えても同じだと思います。もしかして、長い一生の内で、数秒ほどの出会いしかない。しかし、それがその人に、絶大な影響を与える。もしかして、その時は、気づかないかもしれないけれど・・・・・・・・・・。
この世に、偶然などと言うものはない。
それが私の信条のひとつです。