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『クモの糸』考
この作品は唯一、私が完成させた長編である。原稿用紙にして、500枚くらい。筆舌に尽くしがたい苦悩の末、産み落とした鬼子であった。この記事にあたっては、その苦悩が何だったのか、改めて考えてみたいと思う。
最初、この作品は、芥川のオマージュにすぎなかった。しかし、物語を進めていくうちに、物語が固有の意思を持っているのように、勝手に動きだし、当初の構想を遥かに超えてしまった。
言うまでもなく、芥川龍之介著『蜘蛛の糸』がこの作品のネタ本である。私は、中学生のころ、この本を読んで以来、単純な疑問を抱えてきた。どうして、お釈迦様は、カンダタが失敗するとわかっていながら、なお助けようとしたのか? ならば、カンダタがどのような行動を選択すれば、お釈迦様流に、“合格”扱いとなるのか?
こんなことを書いていると、不思議な思いに囚われる。何だか、小中学生に戻って、感想文を書いている気分になる。
この記事はもともと、そのような趣旨ではないのだが、文章が勝手に意思を持つということにおいては、小説も、エッセイも感想文も変わらないのかもしれない。ただし、私は、“私は”で始まる文章が苦手である。 元々、人間が一つの自我に基づく意思体であることを、私は、認めない。それならば、“私は”だけで文章を構成することは、土台、無理な話しということになる。話しがかなりずれた、元に戻そう。
私は、この作品を蜘蛛視点ではじめることにした。『蜘蛛の糸』において、意志を持たぬ存在のように書かれている蜘蛛の視点を借りることによって、抱えて来た問題に光が当てられると思ったからである。小説を書き始めて、気づいたことであるが、ものすごい不思議な体験に遭遇した。それこそ、物語が勝手に意思を持って、動くということである。
作為的に伏線を仕込んでいるわけではない。思うままに、文章を紡ぐことで、勝手に物語が組上がっていくのである。むろん、最初に構想した問いなど、お構いなしにである。
もちろん、物語の間、間に、それを意識的に食い込ませることは、怠らなかった。しかし、気づいてみると、わがままな、キャラの勝手な行動や発言によって、踏み潰されていくのである。
今から思うと、物語の最初に、舞っていた蝶。蜘蛛が、折角作った巣を破壊したあの蝶のことである。彼女が、後々になって。物語を蹂躙していくことなど、自分が創った物語のような気がしない。それこそ、奇蹟としか言いようがない。まさにこれが小説を書くということなのか?としみじみと述懐させられた。
どのような理由によって、蜘蛛がカンダタの母親で、お釈迦様と愛人関係だったなどという設定が生まれたのか?今となっては、答えることはできない。成り行きだったとしか言いようがないである。文章が物語りを産み、物語が、文章を産む。どちらが、卵か鶏なのかという問いに、それは似ているかもしれない。ならば、作品を生み出す苦悩とはどの辺にあるのだろうか?
作家の悩みとは、物語が浮かんでこないのが主因であると思っていた。それは、実際に、自分が書き始めてみると、違うことが判明した。
それは、たしかに、真っ白なモニターを見るたびに、このドットの砂漠に、種を植え付け、豊かな熱帯雨林を育てることができるのかと、悩みはする。しかし、文章を並べていけば、それなりのものが産まれるのである。だから、小説を書く苦悩とはこのことではない。あるいは、辻妻合わせなのではない。それによって、苦労されられることは、あるが、それは二義的な苦しみである。
実際の苦しみとは、おのれが産み落としたキャラたちとの、葛藤、葛藤、葛藤である。「自分が子どもを産んで、育ててみて、はじめて親の苦しみがわかった」とは、世の母親がよく言うことだが、それと酷似しているかもしれない。 キャラの苦しみは、実際に作者の苦しみになる。腹を痛めて産んだ我が子がいじめられていれば、世の母親は、同じ苦しみを味わうのであろう。
しかも、キャラが勝手に動いたとはいえ、そのような設定に追い込んだのは、他ならぬ作者である私なのである。彼ら、彼女らを無事、引率し、終章まで、持って行くのは、まさに幼稚園の先生にも似た苦しみかもしれない。
この作品は唯一、私が完成させた長編である。原稿用紙にして、500枚くらい。筆舌に尽くしがたい苦悩の末、産み落とした鬼子であった。この記事にあたっては、その苦悩が何だったのか、改めて考えてみたいと思う。
最初、この作品は、芥川のオマージュにすぎなかった。しかし、物語を進めていくうちに、物語が固有の意思を持っているのように、勝手に動きだし、当初の構想を遥かに超えてしまった。
言うまでもなく、芥川龍之介著『蜘蛛の糸』がこの作品のネタ本である。私は、中学生のころ、この本を読んで以来、単純な疑問を抱えてきた。どうして、お釈迦様は、カンダタが失敗するとわかっていながら、なお助けようとしたのか? ならば、カンダタがどのような行動を選択すれば、お釈迦様流に、“合格”扱いとなるのか?
こんなことを書いていると、不思議な思いに囚われる。何だか、小中学生に戻って、感想文を書いている気分になる。
この記事はもともと、そのような趣旨ではないのだが、文章が勝手に意思を持つということにおいては、小説も、エッセイも感想文も変わらないのかもしれない。ただし、私は、“私は”で始まる文章が苦手である。 元々、人間が一つの自我に基づく意思体であることを、私は、認めない。それならば、“私は”だけで文章を構成することは、土台、無理な話しということになる。話しがかなりずれた、元に戻そう。
私は、この作品を蜘蛛視点ではじめることにした。『蜘蛛の糸』において、意志を持たぬ存在のように書かれている蜘蛛の視点を借りることによって、抱えて来た問題に光が当てられると思ったからである。小説を書き始めて、気づいたことであるが、ものすごい不思議な体験に遭遇した。それこそ、物語が勝手に意思を持って、動くということである。
作為的に伏線を仕込んでいるわけではない。思うままに、文章を紡ぐことで、勝手に物語が組上がっていくのである。むろん、最初に構想した問いなど、お構いなしにである。
もちろん、物語の間、間に、それを意識的に食い込ませることは、怠らなかった。しかし、気づいてみると、わがままな、キャラの勝手な行動や発言によって、踏み潰されていくのである。
今から思うと、物語の最初に、舞っていた蝶。蜘蛛が、折角作った巣を破壊したあの蝶のことである。彼女が、後々になって。物語を蹂躙していくことなど、自分が創った物語のような気がしない。それこそ、奇蹟としか言いようがない。まさにこれが小説を書くということなのか?としみじみと述懐させられた。
どのような理由によって、蜘蛛がカンダタの母親で、お釈迦様と愛人関係だったなどという設定が生まれたのか?今となっては、答えることはできない。成り行きだったとしか言いようがないである。文章が物語りを産み、物語が、文章を産む。どちらが、卵か鶏なのかという問いに、それは似ているかもしれない。ならば、作品を生み出す苦悩とはどの辺にあるのだろうか?
作家の悩みとは、物語が浮かんでこないのが主因であると思っていた。それは、実際に、自分が書き始めてみると、違うことが判明した。
それは、たしかに、真っ白なモニターを見るたびに、このドットの砂漠に、種を植え付け、豊かな熱帯雨林を育てることができるのかと、悩みはする。しかし、文章を並べていけば、それなりのものが産まれるのである。だから、小説を書く苦悩とはこのことではない。あるいは、辻妻合わせなのではない。それによって、苦労されられることは、あるが、それは二義的な苦しみである。
実際の苦しみとは、おのれが産み落としたキャラたちとの、葛藤、葛藤、葛藤である。「自分が子どもを産んで、育ててみて、はじめて親の苦しみがわかった」とは、世の母親がよく言うことだが、それと酷似しているかもしれない。 キャラの苦しみは、実際に作者の苦しみになる。腹を痛めて産んだ我が子がいじめられていれば、世の母親は、同じ苦しみを味わうのであろう。
しかも、キャラが勝手に動いたとはいえ、そのような設定に追い込んだのは、他ならぬ作者である私なのである。彼ら、彼女らを無事、引率し、終章まで、持って行くのは、まさに幼稚園の先生にも似た苦しみかもしれない。
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無題
既存の作品をベースにした場合、たいていはパロディの域を抜け出せないものですが、
uenoさんの作品は飛び抜けています。
間違いなく、最高レベルのオマージュです。
ありがちな、寓話に現代思想を採り入れて新解釈を見せるというレベルの作品ではありません。なんていうのでしょうか、小説という虚構の世界にさらに虚構を重ねあげた、危うい緊張感の漂う作品だったと私は思います。あるいは、多次元宇宙に対する、文学的解釈ともとれます。可能性による無限の分岐は、現実世界だけではなく、小説という虚構の世界にも起こりうることなのでしょう。
そう考えると、小説を書くという行為は、一つの世界を生み出すための剪定作業のように思えてきます。無限の可能性が同居するカオスから、一つのストーリーを得るために気の遠くなるような回数、枝を切り落としていくのです。
そんなイメージを構築することができました。
uenoさんの作品は飛び抜けています。
間違いなく、最高レベルのオマージュです。
ありがちな、寓話に現代思想を採り入れて新解釈を見せるというレベルの作品ではありません。なんていうのでしょうか、小説という虚構の世界にさらに虚構を重ねあげた、危うい緊張感の漂う作品だったと私は思います。あるいは、多次元宇宙に対する、文学的解釈ともとれます。可能性による無限の分岐は、現実世界だけではなく、小説という虚構の世界にも起こりうることなのでしょう。
そう考えると、小説を書くという行為は、一つの世界を生み出すための剪定作業のように思えてきます。無限の可能性が同居するカオスから、一つのストーリーを得るために気の遠くなるような回数、枝を切り落としていくのです。
そんなイメージを構築することができました。