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小説の、小説による、小説のためのブログの別館です。本当にブログらしい、ブログです。
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 貴子が大きな声を上げた。
「どうしたんですか? 先輩は無事だったんですか?」
 ミチルは、思わず冴子にしがみついた。二人の間には、頭一つほどの身長の差がある。だから、豊満な胸に、少女の顔が埋まってしまった。ぷにゃという感覚は、かつての母親を彷彿とさせる。
 貴子は、あることに気づいた。
「ミチル、こうして、西宮さんが来てるって、ことは ―――――――」
「そうだよ、高島さんは、どうやら理性的な判断ができるようなだな、しかし、それは女としては必ずしもプラスとは限らないな」
「そんなこと、どうでもいい、先輩のこと教えてクダサイ!」
「その前に、顔を話してくれないか、この暑いのに」
「ご、ごめんさない」
冷房が効いているのにも係わらず、この言である。冴子の台詞は習慣化した結果であろう。


 今日、書いた小説の中から~。
自分で、書いていて、不思議なのだが、「習慣化」とは一体、誰の視点なのだろう。あきらかに、作者の視線であることは、たしかだ。
このような、滑稽な表現が許可されるのが、小説のおもしろいところなのだろう。
 しかし、本当に許されるのだろうか? 読者諸君の教えを乞う。
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むしろ教わりたい
視線というのは、いわゆる人称の「視点」という些細な問題を越えた、小説の根幹をなす核心ではないでしょうか。私は、これを一晩考えたのですが、わかりません。つまりは、なぜ「私が作者なのか」という小説外の領域に踏み込みそうになるのです。
たとえば、リレー小説で、私は清美「視点」で書いていますが、視線は紛れもなく「作者の私」です。だから、同じストーリーでありながら、
uenoさんと私のとでは、微妙に世界の見え方が違っているのではないでしょうか。
ここまでは考えられたのですが、あとはわかりません。これについては、私も教えを乞いたいところです。
錦鯉太郎 URL 2009/03/01(Sun)11:00:10 編集
コメント、ありがとうございます
 前にも書いたかも知れませんけど、私は、『私は』で始まる文章が苦手です。もしかしたら、ここに鍵が隠されているもかもしれません。その理由として、目下のところ、挙げられるのは、つぎのようなことです。
 人間=主観(自我)プラスアルファ(無意識)という構造の否定。
 人間=主観(自我)
 主観(自我)主観(自我)主観(自我)主観(自我)プラスアルファ
 という構造を為しているのかもしれない。
これは、あくまで、仮説なのですが、人間は本来、矛盾する生き物であることから。こちらの方が適当だと思われるのです。『私は』の文章形態は、本能的に、それを否定します。それ故に、書きにくいのではないかと想定します。しかし、世の中には、『私は』の文章のほうが得意な人もいると思いますし、難しい問題です。
 ただし、ライターズハイになっているときに、無意識のうちに、『私は』になってしまうことがあります。
 このことも、これを解く鍵の一つかもしれません。
 
ueno URL 2009/03/01(Sun)15:07:00 編集
イタコあるいは代弁者のような
同時にちょっと考えたのですが、第三者の視点から書いている場合、たとえば「清美は恐ろしさのあまり目をそらした」という文章があったとき、これは清美の本心なのか、それとも作者の解釈なのか、と考えてしまいます。「目をそらした」のは行動ですから誰でも書けます。しかし「恐ろしさのあまり」となると、本当に恐ろしさが原因かどうかは、本人にしかわかりません。清美が直接私に向かって「あのときはね、恐ろしさのあまり目をそらしたんだよ」と説明したならいいのですが、実際は作者の解釈です。作者とは、登場人物の心中を読み取るエスパー的な能力をもっていていいのでしょうか。
これを考えると、一切の心理描写ができなくなってしまうので、私は酷く悩んでしまいます。
錦鯉太郎 URL 2009/03/01(Sun)19:50:57 編集
心とは何か?
そうなると、心とは何かという根元的な問題に直面してしまいます。
 
 清美の場合、彼女自身すら、恐れをなしたのが本当なのかわかりません。私は小説の中で、以下のような表現をします。
 彼女は、恐れをなした、いや、そういうフリをしたのかもしれない。
 本来の、客観法から言えば、あり得ないはずです。主観から完全に分離した客観的な見地から言えば、ありえないということは、ないのです。しかし、何故か、しっくりとくるのです。
 
 心の中を読むとありますが、それについて、考えると、また深く悩むことになりそうです。小さいころは、結構エスパー物とかが好きで、そのようなマンガを読んでいました。
 当時はそう、疑問には思わなかったのですが、今から考えると、「人間の心を読む」とはどういうことなのだろうか?どの部分を読めば、「読んだ」ということになるのでしょうか。
 表面的に、Aと考えても、実際のもっと深いところでは、アンチAと考えているかもしれません。蛇足ですが、この辺のところをエスパー物に応用すれば、新しい小説なり、マンガなりが書けるかもしれません。
 話しはずれましたが、心理描写を考えるばあい、以下のように考えるしかないのかもしれません。
 すなわち、「限定された客観」
物語の視点を受け持つ者は、ものすごいエスパーです。何処から何処へでも、瞬時にテレポートできますし、殺しや破壊などの物理的な影響をも与えられます。そして、人の心を読むこともできます。ただし、限定された能力です。文章で、ある事実を表現するばあい、何通りも表現方法はあっても、ひとつの方法しか記述できないように、一通りの心的経過しか記述できません。
 ただし、私はそれを破ってみせます。しかし、これが正しいのかは、まだわかりません。現在と未来の読者に委ねるしか方法はないようです。
ueno URL 2009/03/01(Sun)21:19:06 編集
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