小説の、小説による、小説のためのブログの別館です。本当にブログらしい、ブログです。
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数多くある創作手段の中で、音楽というもの対する、私の興味は、独特の色を放っている。一言で表現すると、一切の嫉妬がないということになる。
小説や詩は言うまでもなく、イラストなどにおいては、優れた作品を、私は今でも、無条件に誉めることはできない。
去る18日に、ある音楽CDが発売された。その歌手は、ほぼ無名だが、作曲家は違う。そのCDをトータルプロデュースした作曲家のことである。
ほぼ、10年前に、一世を風靡したバンドがある。その名前は秘するが、そのバンドを主催していた人物である。
あのバンドが活動停止して以来、彼の行動をトレースしてきた私であるが、今回発売されたアルバムを聴いて、ほのかなデジャブーを否定することはできなかった。
~あのヴォーカリストの亡霊を、否定したのは、まだ若い女性歌手だった。その才気走ったヴォーカルは、かつての“彼”を彷彿とさせるが、その背中に、彼の亡霊を見いだすことはできなかった。見いだすと書いたが、ここは聞き出すと表現したほうが適当なのだろうか。
楽曲は、かつてのバンドを彷彿とさせるが、明かに、その音が醸し出す深さと広さが違う。その根は、地下経路を通じて、はるか核まで達し、その樹木は、葉っぱを大気圏から脱出させるまでに伸ばしている。しかし、その大樹は、少女の手に収まってしまうほどだ。ちょうど、300年の齢を数えた盆栽のように、密やかに、あるいは控えめと言って良いほど、彼の曲は、パリの地下道である。
音楽を文章にすることは、大抵、このような徒労に終わる。しかし、あえてやらざるを得ないと感じる。いや、したい。私に、そう欲求させる正体は、一体何なのだろうか? それは、この作曲家をトレースしてきた理由にも直結する。
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小説を書くとは、なんと怖ろしいことだろう。改めて思う。物語を構築するために、文章を紡いでいくと、自分は世界を創っているということに気づく。 一旦、登場人物に氏名を与えれば、あたかも意思を持っているかのように、動き出す。彼等を操作するのは、楽ではないのだ。そして、彼等に畏怖すら感じるのだ。自分はとんでもないことに手を出している。私はそういう思いを否定できない。 ただ、立ち尽くす。
『クモの糸』考
この作品は唯一、私が完成させた長編である。原稿用紙にして、500枚くらい。筆舌に尽くしがたい苦悩の末、産み落とした鬼子であった。この記事にあたっては、その苦悩が何だったのか、改めて考えてみたいと思う。
最初、この作品は、芥川のオマージュにすぎなかった。しかし、物語を進めていくうちに、物語が固有の意思を持っているのように、勝手に動きだし、当初の構想を遥かに超えてしまった。
言うまでもなく、芥川龍之介著『蜘蛛の糸』がこの作品のネタ本である。私は、中学生のころ、この本を読んで以来、単純な疑問を抱えてきた。どうして、お釈迦様は、カンダタが失敗するとわかっていながら、なお助けようとしたのか? ならば、カンダタがどのような行動を選択すれば、お釈迦様流に、“合格”扱いとなるのか?
こんなことを書いていると、不思議な思いに囚われる。何だか、小中学生に戻って、感想文を書いている気分になる。
この記事はもともと、そのような趣旨ではないのだが、文章が勝手に意思を持つということにおいては、小説も、エッセイも感想文も変わらないのかもしれない。ただし、私は、“私は”で始まる文章が苦手である。 元々、人間が一つの自我に基づく意思体であることを、私は、認めない。それならば、“私は”だけで文章を構成することは、土台、無理な話しということになる。話しがかなりずれた、元に戻そう。
私は、この作品を蜘蛛視点ではじめることにした。『蜘蛛の糸』において、意志を持たぬ存在のように書かれている蜘蛛の視点を借りることによって、抱えて来た問題に光が当てられると思ったからである。小説を書き始めて、気づいたことであるが、ものすごい不思議な体験に遭遇した。それこそ、物語が勝手に意思を持って、動くということである。
作為的に伏線を仕込んでいるわけではない。思うままに、文章を紡ぐことで、勝手に物語が組上がっていくのである。むろん、最初に構想した問いなど、お構いなしにである。
もちろん、物語の間、間に、それを意識的に食い込ませることは、怠らなかった。しかし、気づいてみると、わがままな、キャラの勝手な行動や発言によって、踏み潰されていくのである。
今から思うと、物語の最初に、舞っていた蝶。蜘蛛が、折角作った巣を破壊したあの蝶のことである。彼女が、後々になって。物語を蹂躙していくことなど、自分が創った物語のような気がしない。それこそ、奇蹟としか言いようがない。まさにこれが小説を書くということなのか?としみじみと述懐させられた。
どのような理由によって、蜘蛛がカンダタの母親で、お釈迦様と愛人関係だったなどという設定が生まれたのか?今となっては、答えることはできない。成り行きだったとしか言いようがないである。文章が物語りを産み、物語が、文章を産む。どちらが、卵か鶏なのかという問いに、それは似ているかもしれない。ならば、作品を生み出す苦悩とはどの辺にあるのだろうか?
作家の悩みとは、物語が浮かんでこないのが主因であると思っていた。それは、実際に、自分が書き始めてみると、違うことが判明した。
それは、たしかに、真っ白なモニターを見るたびに、このドットの砂漠に、種を植え付け、豊かな熱帯雨林を育てることができるのかと、悩みはする。しかし、文章を並べていけば、それなりのものが産まれるのである。だから、小説を書く苦悩とはこのことではない。あるいは、辻妻合わせなのではない。それによって、苦労されられることは、あるが、それは二義的な苦しみである。
実際の苦しみとは、おのれが産み落としたキャラたちとの、葛藤、葛藤、葛藤である。「自分が子どもを産んで、育ててみて、はじめて親の苦しみがわかった」とは、世の母親がよく言うことだが、それと酷似しているかもしれない。 キャラの苦しみは、実際に作者の苦しみになる。腹を痛めて産んだ我が子がいじめられていれば、世の母親は、同じ苦しみを味わうのであろう。
しかも、キャラが勝手に動いたとはいえ、そのような設定に追い込んだのは、他ならぬ作者である私なのである。彼ら、彼女らを無事、引率し、終章まで、持って行くのは、まさに幼稚園の先生にも似た苦しみかもしれない。
この作品は唯一、私が完成させた長編である。原稿用紙にして、500枚くらい。筆舌に尽くしがたい苦悩の末、産み落とした鬼子であった。この記事にあたっては、その苦悩が何だったのか、改めて考えてみたいと思う。
最初、この作品は、芥川のオマージュにすぎなかった。しかし、物語を進めていくうちに、物語が固有の意思を持っているのように、勝手に動きだし、当初の構想を遥かに超えてしまった。
言うまでもなく、芥川龍之介著『蜘蛛の糸』がこの作品のネタ本である。私は、中学生のころ、この本を読んで以来、単純な疑問を抱えてきた。どうして、お釈迦様は、カンダタが失敗するとわかっていながら、なお助けようとしたのか? ならば、カンダタがどのような行動を選択すれば、お釈迦様流に、“合格”扱いとなるのか?
こんなことを書いていると、不思議な思いに囚われる。何だか、小中学生に戻って、感想文を書いている気分になる。
この記事はもともと、そのような趣旨ではないのだが、文章が勝手に意思を持つということにおいては、小説も、エッセイも感想文も変わらないのかもしれない。ただし、私は、“私は”で始まる文章が苦手である。 元々、人間が一つの自我に基づく意思体であることを、私は、認めない。それならば、“私は”だけで文章を構成することは、土台、無理な話しということになる。話しがかなりずれた、元に戻そう。
私は、この作品を蜘蛛視点ではじめることにした。『蜘蛛の糸』において、意志を持たぬ存在のように書かれている蜘蛛の視点を借りることによって、抱えて来た問題に光が当てられると思ったからである。小説を書き始めて、気づいたことであるが、ものすごい不思議な体験に遭遇した。それこそ、物語が勝手に意思を持って、動くということである。
作為的に伏線を仕込んでいるわけではない。思うままに、文章を紡ぐことで、勝手に物語が組上がっていくのである。むろん、最初に構想した問いなど、お構いなしにである。
もちろん、物語の間、間に、それを意識的に食い込ませることは、怠らなかった。しかし、気づいてみると、わがままな、キャラの勝手な行動や発言によって、踏み潰されていくのである。
今から思うと、物語の最初に、舞っていた蝶。蜘蛛が、折角作った巣を破壊したあの蝶のことである。彼女が、後々になって。物語を蹂躙していくことなど、自分が創った物語のような気がしない。それこそ、奇蹟としか言いようがない。まさにこれが小説を書くということなのか?としみじみと述懐させられた。
どのような理由によって、蜘蛛がカンダタの母親で、お釈迦様と愛人関係だったなどという設定が生まれたのか?今となっては、答えることはできない。成り行きだったとしか言いようがないである。文章が物語りを産み、物語が、文章を産む。どちらが、卵か鶏なのかという問いに、それは似ているかもしれない。ならば、作品を生み出す苦悩とはどの辺にあるのだろうか?
作家の悩みとは、物語が浮かんでこないのが主因であると思っていた。それは、実際に、自分が書き始めてみると、違うことが判明した。
それは、たしかに、真っ白なモニターを見るたびに、このドットの砂漠に、種を植え付け、豊かな熱帯雨林を育てることができるのかと、悩みはする。しかし、文章を並べていけば、それなりのものが産まれるのである。だから、小説を書く苦悩とはこのことではない。あるいは、辻妻合わせなのではない。それによって、苦労されられることは、あるが、それは二義的な苦しみである。
実際の苦しみとは、おのれが産み落としたキャラたちとの、葛藤、葛藤、葛藤である。「自分が子どもを産んで、育ててみて、はじめて親の苦しみがわかった」とは、世の母親がよく言うことだが、それと酷似しているかもしれない。 キャラの苦しみは、実際に作者の苦しみになる。腹を痛めて産んだ我が子がいじめられていれば、世の母親は、同じ苦しみを味わうのであろう。
しかも、キャラが勝手に動いたとはいえ、そのような設定に追い込んだのは、他ならぬ作者である私なのである。彼ら、彼女らを無事、引率し、終章まで、持って行くのは、まさに幼稚園の先生にも似た苦しみかもしれない。
関西弁で苦労している。
今、書いている小説、『備忘録』。内容には触れないが、関西弁が少なからず必要になる。
それに難渋しているのだ。ネットで、『関西弁辞書』なるものを見つけたが、これがうまく使えない。
実は、私、小学生のある時期、芦屋に住んでいたことがある。関東に戻った当初は、親たちに言わせると、少しばかり、関西弁が残っていたらしい。しかし、今となっては、ほとんど憶えていない。
たしかに、あのイントネーションに、郷愁に似た懐かしさは感じるが、それを駆使しろと言われると、はてなマークを付けざるを得ない。
おそらく、関西の人がみたら、かなり違和感を感じるんだろうな?もしも、関西の方が読者におられたら、おかしなところをご指摘ください。嬉しいです。
今、書いている小説、『備忘録』。内容には触れないが、関西弁が少なからず必要になる。
それに難渋しているのだ。ネットで、『関西弁辞書』なるものを見つけたが、これがうまく使えない。
実は、私、小学生のある時期、芦屋に住んでいたことがある。関東に戻った当初は、親たちに言わせると、少しばかり、関西弁が残っていたらしい。しかし、今となっては、ほとんど憶えていない。
たしかに、あのイントネーションに、郷愁に似た懐かしさは感じるが、それを駆使しろと言われると、はてなマークを付けざるを得ない。
おそらく、関西の人がみたら、かなり違和感を感じるんだろうな?もしも、関西の方が読者におられたら、おかしなところをご指摘ください。嬉しいです。
現在、小説を五本書いております。
<a href="http://aliceizer.blog24.fc2.com/">小説の、小説による、小説のためのブログ</a>・・・・・・・・『備忘録』 『魔弾の射手』 『無伴奏コントラバスソナタno.1』(リレー小説)
某18禁サイト・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『愛と空想のフィリピン(嘘題!)』『幻想即興曲(嘘題!)』
嘘題(うそだい!)このようなサイトと、作品があることだけは事実です。もしも、知りたい方は、個人的に、メール下さい(aliceizer@hotmail.co.jp)心して、お教えいたします。
うそだい!しゃれです。はじけまくっています。本館がくそまじめな文章のぶん、こうなるのです。愚兄賢弟といいましょうか?あ!また、文章が硬くなった!それでは、意味がないではないか!?このおろか者めが!
この別館を造った意味がないではないか!
<反省>閑話休題。
まだ、一作(クモの糸)しか、長編を完成させたことがないのに、五本も同時というのは、はっきり言って辛い。自分ではじめておきながら、辛いもくそもないもんだが、はっきり言って、脳が粥状態です。自分を完全に追い込んでいます、はい。誰か、助けてください!
キャラの名前、忘れます。遠藤びわ?誰だっけ?自分の腹を痛めて、生んだ子の名前を忘れているんだから、どうしようもないです。はい。「ママ!何言ってるのよ!あなた、それでも、母親なの?」と言われてしまいそうです。
五つの世界、それぞれが、同時進行しております。まるで、パラレルワールドです。互いが混戦し合わないことを祈るばかりで、しかし、一回、このようなコトがありました。『コントラバスソナタ』において、18禁キャラの名前を載せてしまったのです。しかも、主人公です。見つけたとたんに、慌てて修正しましたけどね。まったく、救いがないです。共著者に、どうやって、謝罪していいか、わかりません。
しかし、この試みは、良いこともあるのです。五つ、別の世界を体験しているということは、それぞれの個性を保つ役割もあるのです。私は、小説を書くさい、同時に、2作品ないし、3作品を同時にものします。こうすると、個性が際だつのです。皆様もお試しアレ!